ショート・ショート ファンタジア Vol.1

「睡蓮の音」

 

“リーン・・・リーン・・・”

(僕の 夜鳴鳥 ( ナイチンゲール ) が啼いている・・・)

「母さん、ちょと行ってくる」

「行くって、こんな夜中に?やめなさい。身体に障るわよ」

「大丈夫・・・ちょっとした散歩だから」

 

僕は、もう5年もこの息の詰まりそうなサナトリウムから出たことがない・・・。小さい頃、一面のレンゲ畑に突っ伏したことがある。甘い蜜の匂いと、薄紫をした小さな花びら。そして、それに群がる様々な 昆虫 ( むし ) たち。目に映る全てのものが 生命 ( いのち ) の輝きを放ち僕を包み込む。

僕は、これから後にも先にもこの美しさを忘れることはないだろう。それ以上に美しい物がここにはないから・・・。

 

「久しぶりね・・・」

「え?」

振り向く先に・・・君はいた。

「昨日も一昨日も呼んだのにあなたは来なかったわ」

そして小さく。

「嫌われたのかと思った」

上目使いに微笑んでみせた。

「ごめん・・・」

「いいのよ、だってあなた大変だったんでしょう?」

気づかずに押さえていた心臓のあたりを、彼女は儚げな瞳で見つめていた。

(でも、どうして?)と問う間もなく、彼女は夜露に濡れたかのような艶やかな黒髪をなびかせて踵を返すと、また振り向いた。綺麗な顔だ・・・。

「ねえ、睡蓮を見に行かない?」

「スイレン?」

「この近くに、綺麗な沼があるの。知らなかった?」

「綺麗な沼?」

僕にとって沼のイメージは決して綺麗とは言い難い。

「あら、沼って本来は綺麗なものなのよ」

クスリと笑う。

「え? そうなの・・・」

「川や池と比べて沼って人を寄せ付けがたいイメージがあるでしょ?人が寄りつかない分沼は綺麗なのよ」

「・・・ふ〜ん。なるほど・・・」

彼女は僕の薄手のガウンの袖を引っ張ると、もう一度“行こう”と言った。

有無を言わせず、彼女は森の奥へと誘う。月明かりだけが頼りの夜の道。怖がる風もなくひたすら僕を沼の方へと導く。そんなに広い所でもないはずなのに、ずいぶんと歩いたような気がする。

一瞬、眩しいほどの明るさに目を細めた。

「ね、綺麗でしょ?」

水面は月の光をあびてキラキラと光っていて、僕はその光景に魅入ってしまった。

彼女はクスリと笑う。

「あっちの方にボートがあるの。乗りましょう。睡蓮は沼の中心にしかないんだもの」

彼女は走り出した。とても軽い足取りだ。本当に浮いているような感じがする。

 

彼女と初めて会ったのはちょうど一年前の初秋。白樺が続く道に一本だけ楡の木があった。僕は何となくこの木が気に入って、調子の良い日は毎日散歩に来た。

何回目のときだろう。彼女は前からそこに居たかのように自然と立っていた。名前も何も言わない。お互い何も知らない同士・・・それで良かった。

 

「ねえ、早く乗って」

急かす彼女に促されながら揺れるボートに乗り込んだ。ボートなんて乗ったことがない。まして漕いだことなんて・・・それでもオールを両手でしっかり持つとゆっくりと回した。ぎこちなくユラユラとボートは進んで行った。

「初めてにしては上出来だわ」

そしてまた、クスクス笑う。

「睡蓮って花が開くとき“ポン”って音がするって聞いたことがあるけど本当?」

今日、初めて僕から話しかけた言葉に、彼女はクスリと笑う。

「違うわよ・・・そんな音はしないわ。もっと、もっと綺麗よ!」

瞳が少し輝いている。

「花が開くまで、ここにいましょう」

ジッと見つめる瞳・・・そらすことができない。何か話さないと、胸の鼓動が聞こえてしまいそうだ。

「あっ・・・あと何分くらいで開くのかな?」

「・・・何分?いやだ〜。そうね、4〜5時間くらいかしら」

さらっと言う彼女に少し驚きながらも、

(それもいいな)と僕は内心思った。

「君のこと、まだ何も知らないんだった。聞いてもいい?」

オールを漕ぎながら上目使いに彼女を見た。

「私、 水奈 ( みな ) って言うの・・・それだけしか言いたくないわ・・・」

真っ直ぐ僕を見る。

「ごめん・・・言いたくないならいいんだ。僕は」

「和彦・・・」

彼女は透き通るまでに白い指先を、水面にそっと近づけた。

「不思議ね・・・。あんなに細くて頼りない月明かりなのに、そして今は誰もが眠りについている暗い夜なのに。私の手がこんなにはっきりと映っている」

パシャンッと小さな水音を立てて、彼女はいくつもの水の 破片 ( かけら ) を宙に放った。どれもが煌めいて、僕と彼女を映し出しまた、 ( せい ) に戻る。

「君は僕のこと知っているんだね。ここの患者なの?」

僕は彼女の言葉にどう返事していいのかわからなくて“言いたくない”事を聞いた。でも、彼女は微笑みを返してくれただけだった。

「君は僕のこと知っているのに、僕は君のこと何も知らない・・・。不公平だ」

微笑み一つで何も言えなくなった僕は、スネて彼女を見た。

「あなたともっと早く会えていたら・・・」

消え入りそうな弱々しい声、だけどはっきりと聞こえた。

「あなたは大丈夫。まだ輝きを失っていない。もうすぐここから出られるわ」

僕に質問させる間を与えず、彼女は話し続ける。

でも、きっと何を聞いても彼女は答えないんだろう。そんな気がした。

「あっ、ねえ見て睡蓮よ」

彼女は身を乗り出して睡蓮の群衆を指さした。睡蓮はまだその時を静かに待っている。僕は、ボートを睡蓮の群衆に近づけると慎重に止めた。さすがに疲れた・・・。僕も彼女に負けないくらい・・・いや、情けないくらいに色白で全く体力がない。息が乱れている。でも、不思議と苦しくない。けれども、軽く肩で息をしている僕を見て、彼女は淋しそうに俯いた。

「あなたは生きているのね・・・」

一粒、二粒と彼女の瞳から、水面で作られた玉のような涙が流れ落ちる。僕は抱きしめることしかできなかった。

「こんなにも綺麗なのに・・・こんなにも素晴らしいことなのに・・・私、もっともっとがんばれば良かった。そして、笑顔であなたに会いたかった」

彼女からこんなにも沢山の言葉を聞いたのは初めてだった。彼女は泣いている。なのに僕は慰める術も知らずに、ただこれ以上涙を流させないように拭うのが精一杯だった。「もうすぐ・・・もうすぐ睡蓮が開くわ」

彼女は僕から離れると、スッと立った。ボートが少しだけ揺れて波紋を広げる。

「あなただけは私の本当の声を聞いてね。そして・・・」

最後に何か言ったみたいだったが、よく聞こえなかった。僕は彼女の手を取ろうと伸ばしたが、それはひやりとした ( くう ) を掴んだだけだった。

“リン・・・”

睡蓮が花開く。それは、とても美しく、そしてとても儚げで彼女を彷彿とさせた。

「水奈・・・」

夜が明けていく。睡蓮は沼一面にその美を彩っていった。

「君の声、確かに聞いたよ。そして・・・その先の言葉も」

小さく呟くと、僕は一枚だけ露を含んだ花びらを摘み、そっとボートに乗せた。

 

きっと、僕はもうすぐここから出て戻って来ることはないんだろう。そんな気がした。

睡蓮の音は、彼女の続くはずだった命の音。

「大丈夫。僕たちはちゃんと笑顔で会えたじゃないか」

薄もやで霞む睡蓮を見つめると、もう会うことのない彼女に話しかけた。僕の笑顔で君は微笑んでくれているだろうか。

“リン・・・” “リン・・・” “リン・・・”

 

僕の夜鳴鳥はもういない・・・。

 

 

−END−